牧師室から
後宮イラスト

主任牧師 後宮敬(うしろく よしや)

 

   この1年を振り返ると、本当にいろいろなことがありました。嬉しいことも沢山ありましたが、同時に、哀しいこと、辛いこと、どんなに努力しても信頼を得られなかったこと…どうしてこれほどのことが続くのかとため息をつく日々でした。

 そうすると、ついつい悪いことばかりが思い出されてしまうのですが、すこし、気持ちを切り替えてみると、嬉しいこともいっぱいありました。

 お腹の底から笑ったり、食べたことがなったような美味しいものを味わう機会があったり、親しい人と素晴らしい夜景を見たり、新しい家族が増え、孫も与えられました。

 人生は、捨てたものではありません。いいえ、神はたいしたものです。「あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道も備えてくださいます」(1コリント10章13節)というみ言葉通りです。

「神は天にいまし、全て世は事もなし」は『赤毛のアン』の締めくくりのことばですが、神がおられるのですから、わたしたちはどんな事態に見えたとしても、慌てず騒がず、神の働きを待つという姿勢が大切なのだと思います。

 次の1年も、神に委ねながら歩みたいと思います。


張イラスト

伝道師 張  宇成 (ちゃん うそん)

 

コヘレトの言葉1章2~3節

2:コヘレトは言う。なんという空しさなんという空しさ、すべては空しい。

3:太陽の下、人は労苦するがすべての労苦も何になろう。

 

 今から20年くらい前の夏のある日。韓国でふらふらとニート生活を楽しんでいた私は、お金が欲しくて日雇い労働をしました。朝5時に日雇い労働事務所に行き、しばらく待っているとトラックがやって来て、何やらゴニョゴニョと労働内容を説明している親方がいました。当時韓国語が覚束ない私はどんな仕事かもわからずに仕事にありつけると思い、事務所に紹介料5千ウォンを支払い、トラックに乗り込んだのです。着いた現場は何もない一面に拡がる荒地でした。

 丁寧に簡単な韓国語で仕事内容を教えて貰ったのですが、どうやらこの荒野に落ちている石を拾って一箇所に固めて置いて欲しいとの事でした。暑い夏の日に影一つない荒野でひたすら石を拾い、一輪車に載せて運び続けました。中には硬い地面に埋まっている石もあって、スコップで掘りながら石をかき出しました。朝8時から18時まで昼休憩を挟んで石を拾い続けました。作業も終わりに差し掛かった頃、朦朧とする意識の中で思いました。なぜこんなことを人間がする必要があるのだろうか。ブルドーザーで地面を削ればすぐ終わるではないか。

 仕事が終わり、親方に日当8万ウォンを貰いながら私は尋ねました。なぜ、ブルドーザーを使わないんだ?そのほうが速いだろう。すると親方はこう答えたのです。ブルドーザーなら2時間で終わるよ。けどブルドーザーを半日借りたら30万ウォンかかるんだ。だからお前を雇った。

 なるほどと得心し帰路についたのですが、バスに揺られながら、私はふと思いました。俺はブルドーザー以下の値打ちもないのか。一体私という存在は何なのだろう。今日という一日は何だったんだろう。

 人間が何も持たず、裸になった時の値打ちとはいくら程の物なのでしょうか。何の後ろ盾もない。素っ裸になってしまった自分の身体だけの値打ちとは。機械一つ半日借りることも出来ないほどの値打ち。あまりに無力で虚しいものではないか。コヘレトは人が生きる虚しさを語ります。太陽の下で汗を流し労働することに何の意味があるのだろう。地球が誕生して46億年と言われています。46億年の中の私の生に何か意味はあるのか。生きる中で味わう苦労に何の意味もないのではないか。ただ儚く、虚しいものなのではないか。地面を這う蟻と私たちに何の違いがあるのか・・・

 

 神を信じる私たちは生きる意味を神に問いかけます。なぜ私はこの世に存在しているのでしょうか。私たちを創造した神に問いかけるのです。その問いかけとは祈りなのです。神は私たちの祈りをいつも聞いていてくださっています。神に自分の存在をお委ねした時、神は私たちの虚しい生に永遠の命という意味を与えてくださると信じているのです。


島田イラスト

信徒伝道者 島田  直 (しまだ なおし)

 

  人生とは不自由なものだと私は感じることがあります。不意の苦難や、不条理な出来事に振り回されますし、自分が思った通りにことが運ぶことなど稀です。その中で、心に痛みを抱えることもあるかもしれません。出来ることなら、そんな経験せずに済めばいいのにと思うこともあるでしょう。しかし、それは容赦なく自分に降りかかってきます。そんな時、私たちは何を頼りに生きていくことができるのでしょうか。それを私は、神と、自分を支えてくれる他者であると信じています。聖書によると、世界は、全知全能なる神によって創造されたとされています。ではなぜ、その神創造したこの世界の中に苦しみが存在しているのか、その中心で神は一体どうしておられるのか。それは私も疑問に思うところですし、人生を通して問い続ける問いであると思います。しかし私たちは、それを神に問い続けることができます。同時にそれを神は、私たちに許してくださっています。一方で神は、人と人を繋ぐ存在でもあります。それはイエスが、弟子たちを町々に送ったようにです。人と人が繋がる時、私たちは互いに支え合い、喜び合うことができます。苦難にある人は、その支えに中で、少しでも希望を見いだすことができるかもしれません。その中心に神がいると信じて。私は、苦難にある人が神に問い続ける時、身近な他者としてその人と共に生きたいと思っています。これまで出会った人、またこれから出会うであろう人と共に、この世界の中に希望があることを信じ、共に生きていきたいと思っています。


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