牧師室から
後宮イラスト

主任牧師 後宮敬(うしろく よしや)

 

その日の天使を見つける

 

   これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。(マタイ18章10節)

 

  この夏、ある方から中島らもさんの『その日の天使』というエッセイを紹介してもらいました。

 

  中島らもさんは、わたしが若い頃、朝日新聞に人生相談コーナー『明るい悩み相談室』の執筆をしていて、楽しみに読んでいました。

中島さんの人生はまさに波瀾万丈でした。幼い頃は神童といわれ、中高は指折りの進学校。しかし、そこから先は社会のアウトローと呼ばれるところでも生きてきたという経歴があります。だから、劇作家、小説家、エッセイシストの活躍の中でも、人間の弱さやダメなところに対する、ユーモアに包んだ優しさを感じるのです。

 有名な人生相談の一例にこんなのがありました。

 「祖母から『じゃがいもを焼いて味噌をつけて食べると死ぬ』と聞いたのですが、本当でしょうか?」

 という読者から質問があって、それに中島さんはこう答えるのです。

 「本当です。焼きじゃがいもに味噌をつけて食べると人は確実に死にます。」

 おどろくような答えですが、後にこう続きます。

 「ただし、何年後に死ぬかは個人差があります。100年後かもしれません。」

 

  質問にも答えにもユーモアがあります。そしてこのユーモアの中に、ほのかな心の暖かさがあり、それを読む人にとって日常生活を生きて生きような「救い」があるのです。

 

  『その日の天使』にもその暖かさと救いがあります。そこには、「とても哀しいときや、行き詰まったとき、日常にあるふとした光景に、あるいはふとした一言に救われるような経験をする。それは、わたしのための『その日の天使』にちがいない」という内容のエッセイです。

 

  この作品に触れて以来、わたしも『その日の天使』を探すようにしています。たしかに、そんな眼差しで世界をみていると「今日も天使がいてくれた」と、一人微笑むことができるような出来事が起こっているのです。

 

  聖書も、この社会で「小さな存在」として生きざるを得ない人、しかし、その人たちには天使が共にいるのだと語っています。しかももっとも神に近いところに座している天使が、その人たちと共にいるというのです。神の愛の眼差しが、その人たちに注がれているのです。


井上イラスト

牧師 井上   創 (いのうえ はじめ)

 

   聖書の神は自分のことを「生きた神」だと宣言します。お供えをすれば、願いが叶う。悪いことをすれば、罰が当たる。コレをすれば、決まってアレが起こる。このようにシステム化してしまったのが「死んだ神」です。「生きた神」は、時に臨んで、愛を基に、対応を変えます。

 ストレスによって、神経や胃腸を病む人が増えています。理由の一つが、システム化された生活にあるようです。パソコンの決まったキーを押せば、決まった文字がスクリーンに現れる。スマホも同じです。誰かに決められた動作を繰り返している。コンビニや自動販売機。死んだ神に囲まれて、私たちは無意識に疲れていくのです。

 こういった病は、水と火によって癒されると聞いたことがあります。川の流れを眺めながら、パチパチと爆ぜる暖炉の火を眺めながら。その不定形な水と火が、型にはめられて凝り固まった心をほぐしていくのだとか。

 この国でも、囲炉裏の文化がありました。一日の終わりに、家族みんなで囲炉裏の周りで食事をし、お茶を飲み、昔語りをする。一日の疲れが、温かい火によって溶かされていく。

 教会でも夕方、一つの食卓を囲み、凝り固まった自分を柔らかくする礼拝を守っています。どうぞ、温まりにおいでください。


張イラスト

伝道師 張  宇成 (ちゃん うそん)

 

  皆さんにとって教会とはどのような場所でしょうか。

人によって様々な教会との出会いや付き合い方があると思います。私自身は正直に申しますと、教会とは最悪と言える様な出会いでありました。幼少の頃、友達と遊びたかった日曜日に嫌々連れて行かされる教会の事が本当に嫌でありました。

  しかし出会いは最悪であったとしても、神様の導きによって人は教会に導かれるのであると私は信じております。私が色々な事を経験しながら生きて行く中で常に教会は私を迎えいれてくれました。教会の事を必要とする時も、疎ましく思う時もあるでしょう。しかし教会はどの様な時も皆さんをいつも迎え、歓迎します。教会が必要である時に是非お寄り下さい。私たち皆で歓迎致します。


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